新富町方面に向かって一人銀座一丁目を散策していると、子どもたちの無邪気で楽しそうな声が聞こえた。たどり着いたのは、京橋公園だ。
細い路地が多い銀座一丁目で、まさかこんなに広い公園に出会えるとは思っていなかった。
園内を一周すると、かつてはコンクリート製の滑り台があったという看板が立ててあった。ハンコの様な形をした石の看板も発見。
よくある普通の公園とは少し違うような気がして調べてみると、京橋公園には深い歴史と近隣に住む人たちの想いが溢れていた。
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設立されたのは1929年頃。
かつてそこにあった旧京橋小学校に併設されていた公園らしい。
どうやら京橋公園を理解するためには、旧京橋小学校の歴史から辿っていく必要があるようだ。
設立の背景にあるのは1923年に起きた、関東大震災だ。
当時震災で多くの学校が被災し、東京市は復興事業の一環として117校もの復興小学校を設立した。その中の一つが、「東京市京橋尋常小学校」である。
(また別の名前が出てきて混乱させるようだが、その小学校は戦後「中央区京橋小学校」と名前を変えたため、先ほどから登場している旧京橋小学校に当てはまる。)
それらの復興小学校の中で何校かには、防災の拠点としての役割を担う「震災復興小公園」が併設された。ここでようやく、京橋公園が登場する。
そう、京橋公園は「震災復興小公園」として作られたのだ。
こうして震災後から多くの人に親しまれた旧京橋小学校と京橋公園だが、1992年、残念ながら旧京橋小学校は統合され校舎がなくなってしまった。中央区で小学校の統廃合が進められたことが背景だ。
しかし、当時の人々の救いとなったのが、併設された京橋公園はそのまま残されたことである。6年間通った母校がなくなってしまうというのは、誰でも寂しい思いを抱くだろう。だからこそ旧京橋小学校に馴染みのあった方々にとって、残された京橋公園は思い出のたくさん詰まった大切な存在なのだと思う。
旧京橋小学校があった場所には京橋プラザという建物ができたが、京橋公園は丁寧に整備され、現在も多くの人に利用されている。
冒頭に少し登場したコンクリート製の滑り台は、修復されてしばらくの間は設立当時から残る貴重な遊具として親しまれた。しかし安全性の面から2011年に撤去され、今はその姿が写真として看板の中に残っている。
コンクリート製の滑り台も二連式の滑り台も他に見たことがないため、撤去される前に出会いたかったと少し悔しい気持ちになった。
京橋公園についてさらに調べていると、1960年には成瀬巳喜男監督の『秋立ちぬ』という映画のワンシーンにも登場したようだ。思いがけず映画のロケ地だったという新たな一面も知ることができた。
初めはなんとなく通り過ぎてしまった京橋公園だったが、調べれば調べるほど多くの人の想いが詰まっており、銀座一丁目とそこに訪れる人たちを見守っていてくれていたのだと分かった。この記事を書き終えたら、もう一度行ってその歴史を噛みしめたいと思う。
そして京橋公園は、子どもたちの大好きな遊び場として、会社員の憩いの場として、そして旧京橋小学校に通っていた人たちの思い出の場所として、今日も多くの人を温かく迎えてくれる。
【京橋公園】