元祖繁華街!意外と知らない、銀座の歴史3 戦火の中の隆盛と失われた無辜の命

8月になると思うのは戦争の悲惨さである。
この記事が被害者の方への追悼への一助になることを祈る。

前回の内容はこちらから。気になる方はここをチェック。
第一回 元祖繁華街!意外と知らない、銀座の歴史
第二回 元祖繁華街!意外と知らない、銀座の歴史2

目次

デパート、高級商店街の街としての銀座
. 消えたネオン、奪われた無辜の命
瓦礫の山と戦後復興期の努力

 

1.デパート、高級商店街の街としての銀座

第一次世界大戦にて世界全体を巻き込んだ戦争をしていたわけだが、戦火の中心である欧州から離れていた日本は連合軍への軍需の高まりに応え武器を売ることによって旨みを得ていた。対戦に疲弊する世界全体を尻目に、銀座は夜のネオンが輝く街へと変貌を遂げていく。カフェ、バー、喫茶店、小料理店が立ち並び繁華街として隆盛を誇った。日本経済が大恐慌にあえぐ一方で、大阪資本による巨大カフェが銀座通りに出店した。多い時では飲食店の数は600を超えていたという。高級デパートに続きおしゃれなカフェやバーによって若者を引き付ける街として機能していった。

当時のモガの様子

通りには、モボ・モガ(モダンボーイ・モダンガール)と言われる人たちが銀座を闊歩するようになる。モボはオールバックに山高帽子、セーラーズボンにロイド眼鏡、腕にはステッキという出で立ち。モガは断髪のショートカット(今でいうボブカット)に引き眉毛、斬新な柄の着物や最先端の洋装ファッションに身を包んでいた。今でもおしゃれなんじゃないかとも思う。ファッションの流行は回るというがここまで回ってきたならば面白いと思う。

しかし、このような恰好も保守的な人々から見れば、伝統からかけ離れている軽薄な文化だという風に見られていたようだ。

1929年に起きた、ニューヨークのウォールストリートから始まった世界恐慌の影響は、日本にも大きく影を落とすことになる。植民地を持つ国と持たざる国ではできる経済政策に違いが存在していた。イギリスやフランスは、自国の植民地との貿易を独占し他国を締め出した。よって自国第一主義の政策をとっていった。

しかし植民地が少ない国はどのように乗り切ればいいのか。

新たな植民地を確保するしかない、あるいは少ない植民地をより強固にするしかない。そのような流れの中で台頭してきたのが、ファシズムや軍国主義だった。持たざる国の1つである日本は軍国主義に傾倒していくことになる。

 

2.消えたネオン、奪われた無辜の命

華やかな銀座も「贅沢は敵だ」として街からネオンが消えていく。銀座の街頭では、婦人会が「贅沢は敵だ」、「パーマネントはやめましょう」などと市民へと呼びかけるようになる。昭和14年(1940年)には贅沢品の製造と販売が禁止された。また、軍事利用のために広告塔とネオンサインが消滅した。そして昭和18年(1944年)には警察によって銀座の代名詞ともいえる劇場・料理店・待合芸妓屋・バー・酒屋の閉鎖が行われた。戦時下の銀座の街では農業を行う者も現れた程だった。人の往来もなく、繁華街と呼ばれていたことが嘘のようだった。

昭和17年(1943年)4月18日の東京初空襲以来東京各地で度々被害が出ていたが、銀座が始めて空襲の被害を受けたのは、昭和20年1月27日のことだった。作家の邦枝完二は「空襲日記」の中で銀座の惨状を記している。

「銀座は全く昔日の面影を失い、人に生気なく、街に活気なき有様を見るに至れるが、しかも今回のB-29の爆撃は根こそぎ銀座をくつがえしてしまった。」

銀座空襲穴の横にあるコンクリート壁と鉄骨が地下鉄出入口

現在銀座五丁目に存在する泰明小学校に爆弾が落とされ、教員がなくなった。野島、若月、渡辺の三人の先生は、直撃に遇い命を落とした。江尻先生は病院に運ばれたが、間もなく息を引き取ってしまった。

 

3.瓦礫の山と戦後復興期の努力

アーネスト・ヘミングウェイの言葉に戦争について語られた言葉があり僭越ながら言葉を借りようと思う。

「いかに必要であろうと戦争が犯罪であることを忘れてはいけない。」

だれかの愛する人を奪い、誰かの子どもを奪う。戦争の旨みを知った国は戦争の辛酸をなめることになった。愛国教育の中で語られる美しい国日本、兵士が守りたかった故郷は焦土と化した。

東京は4分の1が焼野原となったが、銀座も例にもれることはなかった。玉音放送が流れた8月15日ついに日本は終戦を迎えることになる。9月8日には連合国占領軍のジープ、輸送車、戦車が延々と連なって銀座を通り、人々を驚かせた。銀座の老舗の「伊藤屋」、「松屋デパート」などの老舗の多くは米軍に接収され「TOKYO PX」として米軍専用の売店になった。占領軍は自分たちの生活のために、標識を英語に変えたり通りをわかりやすい名前に変えた。

銀座空襲復旧作業にあたる人々

時代の混乱期には詐欺や闇金が横行するため、闇金業者への対策が急務となった。銀座商店街の人々は復興が第一だと考えた。そして復興計画をたて、昭和21年には銀座復興祭を開くことになる。多くの人々が集まり、銀座復興の兆しが見えたのだった。その背景には戦争から立ち直ろうとする人々の強い意思が存在していたのかもしれない。この時銀座の商店180店が再開店した。

露天商は銀座にとっては馴染みある文化だったが、現代ではほとんど見ることはない。露天商が姿を消したのは戦後のGHQの政策の一つだった。GHQは公衆衛生の観点から露天商の撤去を求めた。東京都は露店整理の後も商売を続けたい者に対して条件付きで都有地の提供を行った。ほぼ闇市と化していた露店の並びは、昭和26年に銀座一丁目に建設された共同店舗「銀一ストア」に移されることになった。

日米関係に変化が訪れるのは1950年の朝鮮戦争に端を発する、サンフランシスコ平和条約の締結にあった。サンフランシスコ平和条約の内容に関しては割愛するが、銀座の街並みに関しては「TOKYO PX」として接収された商店が変換される運びとなった。

日本全体が活気に包んまれていた時期は1950年代から1970年代のこの時期にあるだろう。一度落ちこんだ景気は所得倍増計画とともに飛躍していく。「飛ぶ鳥を落とす勢い」とはこのことで、経済大国として日本は邁進していくことになる。

昭和30年代から40年代の銀座も変化していくことになった。銀座は川に囲まれている地域だったが戦後の瓦礫整理と自動車の発達によって埋め立てられた。そして高速道路の建設、地下鉄の建設が大きく進んでいった。復興と発展を象徴するかのように、モダンでハイカラなビルが建てられるようになっていった。木造建築だった家屋もビルに変わっていった。

飛ぶ鳥を落とす勢いの経済成長が落ち着くことになるきっかけは、オイルショックだった。
オイルショックは日本も大きな影響を受けることになる。第四次中東戦争の報復合戦によって石油の輸出を制限したことから景気は全世界を巻き込み低迷した。
トイレットペーパーが店頭から姿を消したとともに大きな経済成長の動きもストップがかけられた。

今回はこのくらいで。

 

ちくわ

こんにちは。ちくわです。すすめられたモノはなんでも興味を持つことで有名です。難しい顔をしている時が多いですが、9割がた何も考えていません。夕方17時を過ぎると晩御飯のことを考え始めます。
最近の趣味はyoutubeで虫同士を戦わせる、「リアルムシキング」を見ることです。小さなカブトムシがヘラクレスオオカブトに挑んで行く姿は涙なしでは語れません。全米が泣くことは間違いないでしょう。

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