阿久悠が残した言葉でこのようなものがある。
夢は砕けて夢と知り
愛は破れて愛と知り
時は流れて時と知り
友は別れて友と知る
人間とは愚かなもので、過ぎ去ってからでしかそのものの素晴らしさがわからないようにできているらしい。ふるさとが美しく感じるのは、過ぎ去った過去だから美しく思うことができる。例えば、昔好きだった子がとんでもないような美人に、脳内でそうぞうされるのと同じだろう。例を挙げれば、いとまがないほどだ。
銀座一丁目には多くの居酒屋が存在している。その居酒屋たちには、サラリーマンたちの日々の疲れを癒す大役が任されている。その赤ちょうちんが四度目の緊急事態宣言で消えてしまった。彼らはどこで癒されればよいのだろうか。赤ちょうちんは彼らの心の安住の地だったのではないか。しかし平素な日々に戻るために一段と自粛する必要がある。一人一人の協力が重要である。
飲み屋の喧騒に、スナックのママの言葉、日常だったものは全て自粛しなければならなくなった。あの時は辟易とするような空間も今となっては恋しいものだ。禁酒法時代のアメリカのような現状が今の日本には存在している。仕事の後のビールが格別であるように、自粛期間を終えた後の居酒屋のビールは格別なものとなると思う。ああ行きつけのスナックのママが想像の中では美人に見えてきた。